その後、1369年にカスティーリャ王エンリケ2世によってキリスト教徒の手に戻った。三つ目の塔が現存する塔に加えられ、二つの円柱状の塔が両者を繋ぐように設置された。1931年には国家の歴史的建造物に指定された。カラオーラの塔のHPはここ。
アルカサルは、建物もユニークであったが、庭園が良く手入れされていて美しかった。
エンリケ4世の後を継いだイザベル女王とフェルナンド2世は、アルカサルをスペインでの異端審問の場として、また、グラナダに首都を置くナスル朝の攻撃拠点として用いた。ナスル朝はイベリア半島における最後のイスラーム王国であった。アルカサルにおける異端審問は、こののち3世紀の間継続することとなった。1483年には、ナスル朝の最後の王であるボアブディルがアルカサルに監禁された。彼の監禁は、ナスル朝がスペインに対して従属することを約束するまで続いた。
1489年、ボアブディルが再度、スペインに対して反旗を翻すと、スペイン軍はグラナダに兵を進め、1492年、レコンキスタが完了した。この年、アルカサルでは、のちにアメリカ大陸を「発見」したクリストファー・コロンブスとカトリック両王の謁見が行われている[2]。
アルカサルは、ナポレオン・ボナパルト支配に反発する民衆蜂起で勃発したスペイン独立戦争がイベリア半島を戦火で包んだ時も、要塞として機能した。終戦後の1821年、アルカサルは、刑務所となった。1950年代、スペイン政府の決定により、アルカサルは、観光拠点、国家のモニュメントとして生まれ変わった[1] (Wikipedia)。
1236年、レコンキスタが本格化し、コルドバがキリスト教勢力の手によって陥落した。1386年、アルフォンソ11世が今日に残るアルカサルの建設をかつての要塞跡に開始した[2] 。ムーア人が建設したアルカサルの他の部分は、戦利品として、司教、貴族、カラトラーバ騎士団に与えられた[1] 。アルフォンソ11世は、ムーア人のアルカサルのほんの一部を保存したに過ぎないが、ムデハル様式を使うようになったとしても、イスラーム時代の構造を残している。
エンリケ4世は、10代の時に、半分血を分けた兄弟のアルフォンソの反乱に巻き込まれ、アルカサルもその反乱に巻き込まれた。反乱の間、アルカサルの防御設備は、弾薬の使用に対処できるように改装された。「異端審問の塔」と呼ばれるアルカサルの主塔が建設されたのも、この時代である[1](Wikipedia) 。
メスキータは大きく3つの構成要素からなる。アミナール (Aminar) と呼ばれる回教寺院の「塔」と、現在はオレンジのパティオ (Patio) と呼ばれ、礼拝者が体を清めるための沐浴を行う清めの「庭」。そして無数の柱が森のように広がる祈りの場「礼拝の間」である。礼拝の間にはキブリ壁 (muro Kibli) といわれるメッカのカーバ (Kabah) 神殿の方向を指し示す壁が正面にあり、目印となるミフラーブ (Mihrab) と呼ばれる小さな窪みが設けられている。
モスクは、イスラムの教義「すべての人は神の前で平等である」にもとづき、聖地メッカのカーバ神殿の方向に一人一人が祈りをささげる場所である。礼拝の間はこの教義をそのまま形にしたといえる。多数の柱によって支えられた空間は、無限に連続してゆく祈りのための均質な広がりとなっている。空間を支える無数の円柱は、世界各地から集められた時代、様式、場所の異なる他の建物から転用されたものである。この転用されたために寸足らずとなった円柱の上部に10m程度の高い天井を支えるための工夫が、特徴となる2重アーチを生んだ。メリダにあるローマの水道橋を参考にしたとされるこの2重アーチは、赤いレンガと白の石灰岩を交互に楔状に配した構成となっている(Wikipedia)。
コルドバのモスクは10世紀末に拡張工事が行われ、数万人を収容することが出来る巨大モスクが完成した。しかし13世紀にレコンキスタによってカスティージャ王国がコルドバを再征服すると、コルドバの巨大モスクはカトリック教会の教会堂に転用される。
最終的には16世紀、スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世、ただしスペイン国内ではカルロス5世とも呼ばれる)の治世にモスク中央部にゴシック様式とルネサンス様式の折衷の教会堂が建設され、現在のような唯一無二の不思議な建築物として成立を見た。現在、この聖マリア大聖堂は世界遺産に登録されている。
711年、イスラム教徒に西ゴート王国が征服された(グアダレーテの戦い)。756年に成立した後ウマイヤ朝はコルドバを首都とし、その中心はモスク(メスキータ)であった。10世紀にアブド・アッラフマーン3世とハカム2世の治世下で繁栄をとげ、大図書館が建てられて多くの学者が活躍した。トレドと並んで西方イスラーム文化の中心地として発展し、10世紀には世界最大の人口を持つ都市となった。
キリスト教勢力によるレコンキスタの進展により、1236年6月29日、カスティーリャ王国のフェルナンド3世に征服された。15世紀末、レコンキスタが完了するとイスラム勢力がイベリア半島から追われ、メスキータにはカトリック教会部分が増築された。