July 30, 2014

スペインアンダルシア個人旅行 33 コルドバ市内観光 ハモン・イベリコ

ミラフローレス橋からポトロ広場を目指して細い路地を歩いて行くと小さなレストランがあり、中にイベリコ豚
ハモン・イベリコが置いてあるのが見えた。どうやら量り売りもしてくれるらしく、交渉して少し分けてもらった。
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July 29, 2014

モロッコ旅行 32 カサブランカ市内観光 Rick's Cafe

カサブランカと聞くと何をイメージしますか? 私の場合は、少なくとも現地を訪問する前までは映画のカサブランカ白い百合の花であった。
映画は、 ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマン主演のカサブランカである。古い映画ではあるが、映画好きの私は何回も観た。
映画に出てくる主人公Rickの「Cafe American」に似せて2004年に作られたレストラン「Rick's Cafe」に入りたかったが、時間の関係で外から見ただけにとどまったのは残念であった。映画の中で
 Dooley Wilsonにより演奏されたAs Time Goes By  はいい曲である。
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July 28, 2014

スペインアンダルシア個人旅行 32 コルドバ市内観光 ローマ橋

アルカサルを出て北西方向に少し歩いて行くとグアダルキビール川が見えてくる。そこかかっている橋の一つがローマ橋である。ローマ橋を観ながら散歩するのは大変気持ちの良い経験であった。
橋の反対側にはカラオーラの塔がある。この塔12世紀末、ムワッヒド朝によって、ローマ橋を守る為にグアダルキビール川の左岸に建てられた。この塔はかつて二つの塔とその間にかかるアーチ状の門を有した。

その後、1369年カスティーリャ王エンリケ2世によってキリスト教徒の手に戻った。三つ目の塔が現存する塔に加えられ、二つの円柱状の塔が両者を繋ぐように設置された。1931年には国家の歴史的建造物に指定された。カラオーラの塔のHPはここ
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July 27, 2014

モロッコ旅行 31 カサブランカへの道

Marakechから Casablanca迄の道はこの通りである。途中休憩をはさみながらこのような平原ばかりの台地を
走りながら、やっと3時間以上かかってカサブランカに着いた。後半、鉄道があり、赤い列車がバスに並行して走っていたのでカメラで追いかけることにした。
カサブランカ
(英語: Casablancaアラビア語الدار البيضاء‎; ad-dār al-bayḍāʼ)は、モロッコ最大の都市であり、モロッコの商業・金融の中心地。アフリカ有数の世界都市でもある。カサブランカとはポルトガル語スペイン語で「白い家」の意。
 
モロッコの首都ラバトの南西約90キロメートルに位置し、北は大西洋
に面する。人口は約400万人(2014年)でモロッコ最大。モロッコの商業・金融の中心地であると共に、観光地として多くの人が訪れる。
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July 26, 2014

スペインアンダルシア個人旅行 31 コルドバ市内観光 アルカサル4

アルカサルは、建物もユニークであったが、庭園が良く手入れされていて美しかった。
エンリケ4世の後を継いだイザベル女王とフェルナンド2世は、アルカサルをスペインでの異端審問の場として、また、グラナダに首都を置くナスル朝の攻撃拠点として用いた。ナスル朝はイベリア半島における最後のイスラーム王国であった。アルカサルにおける異端審問は、こののち3世紀の間継続することとなった。1483年には、ナスル朝の最後の王であるボアブディルがアルカサルに監禁された。彼の監禁は、ナスル朝がスペインに対して従属することを約束するまで続いた。

1489年、ボアブディルが再度、スペインに対して反旗を翻すと、スペイン軍はグラナダに兵を進め、1492年、レコンキスタが完了した。この年、アルカサルでは、のちにアメリカ大陸を「発見」したクリストファー・コロンブスカトリック両王の謁見が行われている[2]

アルカサルは、ナポレオン・ボナパルト支配に反発する民衆蜂起で勃発したスペイン独立戦争がイベリア半島を戦火で包んだ時も、要塞として機能した。終戦後の1821年、アルカサルは、刑務所となった。1950年代、スペイン政府の決定により、アルカサルは、観光拠点、国家のモニュメントとして生まれ変わった[1] (Wikipedia)。
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July 25, 2014

モロッコ旅行 30 マラケシュ市内観光 Restaurant Portofino

2月25日の午後、昼食を広場近くのイタリアンレストラン Portofino でとった。 ここは昼食を食べるのにちょうどよいレベルで、雰囲気も悪くなかった。料理は、タジンであった。昼食後、我々は約250km離れた最後の訪問都市カサブランカへ向けてバスを走らせた。
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July 24, 2014

最近読んでいる本  佐伯泰英

私は、最近まで佐伯泰英の本は一冊も読んだことがなかった。最初に読んだのが今月図書館から借りた「
ユダの季節
佐伯 泰英
ベストセラーズ
2005-06

」。面白くて一気に読んだ。今年3月末にスペインアンダルシア旅行へ行き、闘牛に興味を持ち始めていたせいかもしれない。私のスペイン旅行は2度目であるが、まだまたスペインで行ってみたいところはたくさんある。
 「ユダの季節」を読んだ後、この作者が現在は長編時代小説の売れっ子作家であることを知った。
私は、これまで司馬遼太郎と藤沢周平の全集(68巻、27巻)

藤沢周平全集〈第1巻〉
藤沢 周平
文藝春秋
1992-06

は8割以上読了している。最近、時代劇の作家を探していたところでもあった。そこで初めて彼の最初の時代小説「

」 から


を読んだ。彼の小説は、肩がこらないのと、エンターテインメントに徹しているのでとにかく面白く読める。そして現在は、「闘牛士 エル・コルドべス1969年の反乱」を読み始めている。彼は、若いころはスペインに住みながら闘牛カメラマンをしていたのである。そして私の場合も、自分の油絵の題材としての闘牛が具体的になりつつある。
  
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スペインアンダルシア個人旅行 30 コルドバ市内観光 アルカサル3

1236年レコンキスタが本格化し、コルドバがキリスト教勢力の手によって陥落した。1386年アルフォンソ11世が今日に残るアルカサルの建設をかつての要塞跡に開始した[2] 。ムーア人が建設したアルカサルの他の部分は、戦利品として、司教貴族カラトラーバ騎士団に与えられた[1] 。アルフォンソ11世は、ムーア人のアルカサルのほんの一部を保存したに過ぎないが、ムデハル様式を使うようになったとしても、イスラーム時代の構造を残している。

エンリケ4世は、10代の時に、半分血を分けた兄弟のアルフォンソの反乱に巻き込まれ、アルカサルもその反乱に巻き込まれた。反乱の間、アルカサルの防御設備は、弾薬の使用に対処できるように改装された。「異端審問の塔」と呼ばれるアルカサルの主塔が建設されたのも、この時代である[1](Wikipedia) 。
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July 23, 2014

モロッコ旅行 29 マラケシュ市内観光 朝のジャマエルフナ広場

前回は夕方だったが、今回は朝のジャマエルフナ広場。夕方と異なり、人が少なくお昼近くになり人が集まってきた。今度もまた宮崎さんと、同じカフェの2階から写真を撮った。
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July 22, 2014

スペインアンダルシア個人旅行 29 コルドバ市内観光 アルカサル2

アルカサルはイスラーム建築の影響を強く残しながらも、建設されたのは、キリスト教の支配下に入ってからである。もともと、この場所には、西ゴート王国要塞が存在していた。ウマイヤ朝の攻撃により、西ゴート王国が滅亡すると、ダマスカスカリフから派遣されたウマイヤ朝のアミールによって、要塞が再建された。アッバース朝の攻撃により、ウマイヤ朝が滅亡すると、アッバース朝の迫害かウマイヤ朝の一族であるアブド・アッラフマーン1世はコルドバに逃れた。アブド・アッラフマーン1世の後継者たちは、コルドバでカリフ権を宣言し、西ゴート時代の要塞を自らの王宮として用いた。ヨーロッパが暗黒時代を迎えるころ、コルドバは、国際的、政治的、文化的中心となり、繁栄を極めた[1] 。ムーア人は、浴場、庭園、当時の西欧世界では最大規模の図書館を王宮に併設、拡張した。グアダルキビール川には水車群が建設され、庭園に水を供給した。アルカサルの水車群は、イザベル女王があまりの騒音のために安眠が妨げられたと訴えるまで、稼動していた(Wikipedia)。
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July 21, 2014

モロッコ旅行 28 マラケシュ市内観光 バヒア宮殿 4

バヒア宮殿の庭には、オレンジの果実が実っており、ブーゲンビリアの花がきれいであった。
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July 20, 2014

スペインアンダルシア個人旅行 28 コルドバ市内観光 アルカサル

メスキータを出て、西のほうに歩いて行くと要塞のような建物が見えてくる。これがアルカサルである。キリスト教徒の王たちのアルカサルAlcazar de los Reyes Cristianos)、あるいは、コルドバのアルカサルは、スペインコルドバにあるアルカサル)である。グアダルキビール川の側にあり、メスキータにも近い中世に建設されたアルカサルである。名前の由来は、キリスト教徒の王であるアルフォンソ11世によって建てられ、その後も王族の住居として用いられたことによる(Wikipedia)。
アルカサルもまたコルドバを支配してきたいくつかの文化の存在を
証明する建造物のひとつである。
ローマ時代からコルドバに入るにはどうしても通らなければならないローマ橋の近くにあるという立地から要塞として使われてきたアルカサルは、イスラム教徒がコルドバを支配していた時代には宮殿として使われていた。
コルドバがキリスト教徒によって奪還されると、王の住まいとなり、アルフォンソ11世が1327年に現在残るような建物にゴシック様式で再建築を命じた。1482年から10年間はカトリック両王がグラナダに最後まで残っていたイスラム王朝を滅ぼすための軍事基地として利用し、グラナダの奪還が完了すると、カトリック両王はコルドバの地を去り、その後は異端審問所となってた。 
 
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July 18, 2014

モロッコ旅行 27 マラケシュ市内観光 バヒア宮殿 3

バヒア宮殿(Palais de la Bahia)については、短いがこの が参考になる。
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July 17, 2014

スペインアンダルシア個人旅行 27 コルドバ市内観光 メスキータ 5

我々は、メスキータの内部を十分堪能した後、外に出てオレンジの木の下で近くで買ってきたサンドウィッチを食べた。映像があまり鮮明ではないが、中の雰囲気はこのYouTube で感じることができるであろう。
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July 16, 2014

モロッコ旅行 26 マラケシュ市内観光 バヒア宮殿 2

バヒア宮殿に行ったのは今年の2/25であるが、その後3/25に行ったグラナダのアルハンブラを観て回った時どこかで似たようなものを観たと思ったが、それがこのバヒア宮殿であった。アルハンブラから約400年後の19世紀末、宮廷の高官だったブー・アフメドという人物が自らの邸宅として建てたそうであるが、スペインのアルハンブラ宮殿と比較されるほどの、イスラム建築の傑作として知られている。
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July 15, 2014

スペインアンダルシア個人旅行 26 コルドバ市内観光 メスキータ 4

メスキータについては、このサイトが詳しい。

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July 14, 2014

モロッコ旅行 25 マラケシュ市内観光 バヒア宮殿

次にバヒア宮殿《 Palais de la Bahia 》に行った。ここはマラケシュの旧市街の南側にある宮殿であり、19世紀末、アラウィー朝ハッサン1世の宰相アリ=バハメットの私邸として建造された中央水盤を配した中庭があり、周囲には天井に細密画が描かれた4人の妃と側女たちの部屋が並んでいる。
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July 13, 2014

スペインアンダルシア個人旅行 25 コルドバ市内観光 メスキータ 3

メスキータは大きく3つの構成要素からなる。アミナール (Aminar) と呼ばれる回教寺院の「塔」と、現在はオレンジのパティオ (Patio) と呼ばれ、礼拝者が体を清めるための沐浴を行う清めの「庭」。そして無数の柱が森のように広がる祈りの場「礼拝の間」である。礼拝の間にはキブリ壁 (muro Kibli) といわれるメッカのカーバ (Kabah) 神殿の方向を指し示す壁が正面にあり、目印となるミフラーブ (Mihrab) と呼ばれる小さな窪みが設けられている。

モスクは、イスラムの教義「すべての人は神の前で平等である」にもとづき、聖地メッカのカーバ神殿の方向に一人一人が祈りをささげる場所である。礼拝の間はこの教義をそのまま形にしたといえる。多数の柱によって支えられた空間は、無限に連続してゆく祈りのための均質な広がりとなっている。空間を支える無数の円柱は、世界各地から集められた時代、様式、場所の異なる他の建物から転用されたものである。この転用されたために寸足らずとなった円柱の上部に10m程度の高い天井を支えるための工夫が、特徴となる2重アーチを生んだ。メリダにあるローマの水道橋を参考にしたとされるこの2重アーチは、赤いレンガと白の石灰岩を交互に楔状に配した構成となっている(Wikipedia)。
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July 11, 2014

モロッコ旅行 24 マラケシュ市内観光 スーク(Souk)

旅行6日目の2/26(火)は、朝8:00にホテルを出て、市内観光に出かけた。まず、ジャマ・エル・フナ広場の北側に広がるスーク(Souk)(市) を観て回った。朝が早いせいか多くの店はまだ開いていなかったが、それでも食料品の一部の店を観ることはできた。現実の雰囲気は、このYouTubeで確認してください。
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July 10, 2014

スペインアンダルシア個人旅行 24 コルドバ市内観光 メスキータ 2

メスキータを理解するには、レコンキスタを理解することが必要である。レコンキスタスペイン語:Reconquista)は、718年から1492年までに行われたキリスト教国によるイベリア半島の再征服活動の総称である。ウマイヤ朝による西ゴート王国の征服と、それに続くアストゥリアス王国の建国から始まり、1492年のグラナダ陥落で終わる。レコンキスタはスペイン語で「再征服」(re=再び、conquista=征服すること)を意味する。ポルトガル語では同綴でルコンキシュタという。日本語においては意訳で国土回復運動(こくどかいふくうんどう)や、直訳で再征服運動(さいせいふくうんどう)とされる。
この長い歴史の中でも、キリスト教徒は、イスラム文化のすべてを拭い去ることはできなかったのである。そしてこのことは現在の諸問題にもつながっているのである。
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July 09, 2014

モロッコ旅行 23 マラケシュ市内観光 ホテル&レストラン

ホテルに到着後、夕食は、ジャマ・エル・フナ広場近くの Restaurant Palais Arabe に行った。
ここは、食事は大したことがなかったが民族楽器の演奏があり、面白かった。 ホテルはAGDAL
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July 08, 2014

6番目の孫

7/6(日) 名古屋から私の長男夫婦が、この3月に生まれたばかりの孫を連れてきた。
長男 待望の男の子である。赤ん坊は可愛いし、本当にうれしい。元気そうで何よりであった。
私にはこれまでに長女が2人、次女が3人の孫がいるので、彼は6番目の孫である。
男2人、女4人の内訳であるが、もう一人生まれれば「7人の孫」となる。
私は、「これらの孫たちが成人するまで生きていられるのであろうか?」  と思い今後も健康に留意して元気で頑張ろうと心に誓った。
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July 07, 2014

スペインアンダルシア個人旅行 23 コルドバ市内観光メスキータ 1

我々は、まずメスキータ(MEZQUITA)を観るために市街地を歩いたが、コルドバのシンボルであるメスキータは
意外と近くにあった。 ミナレットと呼ばれる尖塔とオレンジの木のある中庭でチケットを買い中に入っていった。
 メスキータ (Mezquita) は「モスク」(ひざまずく場所)、ムスリム(回教徒)の礼拝堂の意味で、スペインに現存する唯一の大モスクである。アブドールラフマン1世は、グワダルキビール川の流れが変わるコルドバの小高い丘にメスキータの建設を始める。ここは紀元2世紀、戦勝祈願を行ったローマ神殿があったという伝説があり、西ゴート王国時代には聖ヴィアンテ教会があった神聖な場所であった。ここは785年、イスラム教の寺院としてアブデラマン1世時代に建設された。その後、カトリック教徒が権力をにぎった1236年からは、内部に礼拝堂を設けたりカテドラルが新設されて、メスキータはイスラム教とキリスト教、2つの宗教が同居する世にも珍しい建築となった。かつてイスラム教徒が庭の池で身を浄めたオレンジの中庭や、アーチ上部の赤と白の縞模様がモスクの面影を感じさせるマヨール礼拝堂など、見所は数多い。もともとこの地には西ゴート王国時代に建設されたカトリック教会の聖ビセンテ教会が存在していた(現在ではメスキータ内部に一部その遺構が公開されている)。その後、イスラム勢力が北アフリカからイベリア半島に侵入し後ウマイヤ朝を建国すると、この聖ビセンテ教会はイスラム教のモスクとしても使用されるようになった。更に8世紀末にはイスラム教徒がキリスト教徒から聖ビセンテ教会を完全に買い取り、新たにモスクの建造を開始した。この時に建造されたモスクは、現在でも聖マリア大聖堂の一部として使用されている。

コルドバのモスクは10世紀末に拡張工事が行われ、数万人を収容することが出来る巨大モスクが完成した。しかし13世紀レコンキスタによってカスティージャ王国がコルドバを再征服すると、コルドバの巨大モスクはカトリック教会の教会堂に転用される。

最終的には16世紀、スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世、ただしスペイン国内ではカルロス5世とも呼ばれる)の治世にモスク中央部にゴシック様式ルネサンス様式の折衷の教会堂が建設され、現在のような唯一無二の不思議な建築物として成立を見た。現在、この聖マリア大聖堂は世界遺産に登録されている。
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July 05, 2014

モロッコ旅行 22 マラケシュ市内観光 ジャマエルフナ広場

バスから降りてジャマエルフナ広場(PlazaJamaa el Fna)を散策に出かけた。広場は異様な雰囲気を漂わせていた。
人間のあらゆるエネルギーが集まっているような気配である。私は、友人の宮崎さんと二人で 
grand balcon du cafe glacierの二階に陣取って写真を撮った。このサイトは夜の雰囲気がよく出ている。しかし
このYouTube とこのYouTubeは、もっと臨場感が出ている。
やはり動画はすごい。 
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July 03, 2014

スペインアンダルシア個人旅行 22 コルドバ 市内観光

3/27(木)は、コルドバに行くことにしたので、少し早目にホテルを出た。
約3時間かかって市街地に近いパーキングに駐車して徒歩で観て回ることにした。コルドバはセビーリャ、マラガに次ぐアンダルシア第三の都市である。アンダルシア州コルドバ県の県都でグアダルキビール川に面する。かつての後ウマイヤ朝の首都で、イスラム時代の文化を伝える建築物や街路が遺されている。メスキータやユダヤ人街を含む「コルドバ歴史地区」は世界遺産に登録されている。
 
古代ローマ時代には、属州ヒスパーニア・バエティカの首都であった。現在でもローマ寺院やローマ橋などの遺跡が遺されている。のちに西ゴート王国に支配され、6世紀には東ローマ帝国の領土となったこともある。

711年、イスラム教徒に西ゴート王国が征服された(グアダレーテの戦い英語版)。756年に成立した後ウマイヤ朝はコルドバを首都とし、その中心はモスク(メスキータ)であった。10世紀にアブド・アッラフマーン3世ハカム2世の治世下で繁栄をとげ、大図書館が建てられて多くの学者が活躍した。トレドと並んで西方イスラーム文化の中心地として発展し、10世紀には世界最大の人口を持つ都市となった。

キリスト教勢力によるレコンキスタの進展により、1236年6月29日カスティーリャ王国フェルナンド3世に征服された。15世紀末、レコンキスタが完了するとイスラム勢力がイベリア半島から追われ、メスキータにはカトリック教会部分が増築された。
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July 02, 2014

モロッコ旅行 21 マラケシュ市内観光 サアード朝の墳墓群

マラケシュはジャマ・エル・フナ広場をはじめ非常に魅力的な都市である。
マラケシュの地図はこれを見ればわかる。マラケシュは東西2km、南北3kmの城壁に囲まれた旧市街(メディナ)と、旧市街の西に広がる新市街からなる。新市街の西端にマラケシュ駅が位置する。旧市街は北アフリカでも最大の規模であり、王宮のほか、バイア宮殿、エルバディ宮殿、サアード朝の墳墓群、ベルアベ陵、アグダル庭園などを含む。
マラケシュの観光も時間に限りがあるので、限定されたものになる。
そこで翌日の予定を早めて、サアード朝の墳墓群に行くことになった。
アーチの周辺に花弁状の文様が同心円状に施されたアグノウ門を確かめながら少し歩いて行くとカスバ寺院があり、このモスクの右側にサアード朝の墳墓群があった。サアード朝(サアードちょう; Saadi)は、16世紀初頭から1659年までモロッコを支配したシャリーフ系王朝。サーディ朝若しくはサアード朝とも呼ばれる。オスマン帝国の拡大を阻止したことと、ソンガイ帝国を滅ぼした
ことで知られる。ここは、サアード朝代々のスルタンが葬られている墳墓群である。アラベスクのタイルが素晴らしかった。 
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